落語はビジネスにも役立つ!「笑う力」を身につけたい

アマチュア落語家・太助が、落語の魅力を考えます。

三遊亭円楽『流されて円楽に 流れつくか圓生に』

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こんにちはアマチュア落語家の太助です。今回は六代目・三遊亭円楽の自伝『流されて円楽に 流れつくか圓生に』を読む機会があったので、ご紹介します。六代目・円楽といえばテレビ番組「笑点」のレギュラー出演者として、全国的な知名度があります。画面に向かって右から二人目、紫の着物の落語家といえば、お分かりの方も多いはず。笑点では「腹黒い落語家」というポジションで、時おり回答に政治への批判など入れたりもします。本書は、六代目・円楽の口述形式の自伝です。

 

望んで入門したわけではない落語家への道

 

ご存知かもしれませんが、六代目・円楽は青山学院大学落研(おちけん:落語研究会)の出身です。このため、いいとこのお坊ちゃん育ちというイメージがあるのですが、幼少時代は極貧の生活を送っていたそうです。トタン屋根の長屋暮らし。遠足の費用も出してもらえないような生活の中でも、知恵を働かせながら、たくましく生き抜いていきます。

 

大学進学後は、学費を稼ぐためにさまざまなアルバイトを掛け持ちします。その中の1つがテレビの人気者、5代目・三遊亭圓楽のカバン持ちでした。ある日、タクシーに同乗していると、圓楽から落語家として弟子入りを勧められます。

 

「……(五代目の口調)どうだい? 落語やってみねぇかい? めんどくせいから、弟子になっちまぇよ」

と云うことはスカウトでしょ? だから一門五十何人居る中で、スタートは私だけが違うんですよ。

 

 

しかし、声をかけられてから正式に弟子入りが認められるまでには紆余曲折があります。というのも当時、落語協会の会長を務めていたのは、5代目圓楽の師匠である三遊亭圓生古典落語の名人・圓生は落語家の質の低下を憂い、弟子入りと真打昇進に厳しい制限をかけたのです。

 

その後、会長が圓生から柳家小さんに変わり、協会の方針が変更されたことで、ようやく弟子入りが認められ、楽太郎という高座名で落語界入りを果たします。しかし、前座から二つ目に昇進した二年後に新たな事件が起こります。それが落語協会分裂騒動です。

 

圓生体制下で真打昇進をほとんど認めなかったため、落語協会では二つ目の落語家が大量に増えるという状態になっていました。寄席の減少や落語人気の低迷もあり、協会は二つ目の増加に対応できなくなり、小さん体制になってから大量真打制度を導入します。これは、一度に10人程度の真打を承認してしまおうというものです。真打を落語家の最高位と考える圓生は、真打の大量生産に真っ向から反対し、新協会の設立を目論みます。

 

しかし、このクーデターは寄席の席亭の反対であえなく失敗し、三遊亭圓生の一門のみ落語協会を脱退することになります。(このいきさつは、三遊亭円丈(著)『師匠、御乱心!』に詳しいので、興味がある方はそちらをご一読ください)。

 

転がり込んできた笑点レギュラーと円楽の看板

 

落語家の常設の仕事場である寄席に出られなくなったことで、三遊亭圓生一門は地方の公民館やホールに活動の場を求め、全国を落語巡業します。

 

こうして地方のどさ回りが続く中、楽太郎に思わぬチャンスが転がり込んできます。「笑点」のレギュラー回答者であった5代目・圓楽が、出演を無断ですっぽかしてしまうのです。付き人として居合わせた楽太郎が急きょ出演することになり、これをきっかけに5代目・圓楽の代わりに笑点のレギュラーの座を手に入れるのです。

 

名人・圓生の没後、何人かの弟子達は落語協会に戻りますが、5代目・圓楽は協会に戻らず、新団体を設立し(現在の円楽一門会)地方巡業を続けると共に、自力で寄席「若竹」も開業します。こうした中、楽太郎は昭和56年には真打昇進を果たします。また5代目・圓楽より「圓楽の名を継がせる」と早くから明言されていて、平成22年には6代目円楽を襲名します。この襲名に関しては乗り気でなかったようで、5代目圓楽の没後に行われました。

 

タイトルの「流されて円楽に」はここから来ています。自分で望んだわけではなく、円楽の看板が転がり込んできたのです。落語家の弟子入り、笑点のレギュラー、円楽の看板と、自分が望んだわけではないのに手に入れていくのですから、非常に運の強い方なのでしょう。

 

落語家よりもビジネスマンに向いているのでは?

 

本書ははっきり言って、6代目・円楽の自慢話のオンパレードです。師匠である圓楽はもとより、偉大なる先輩落語家、桂歌丸立川談志師匠に自分がいかに可愛いがられたかが延々と語られます。このように可愛がられたのも、小さい頃からの貧乏暮らしで培った「上への取り入り方」を身に付けていたからだそうです。

 

本書を読んでいて、「この人は落語家ではなくサラリーマンになったほうが良かったのでは」という感想を何回も抱きました。年長者・実力者への取り入り方の上手さ、プロジェクトを遂行する能力(「博多・天神落語まつり」のようなイベント実行力)、会話のうまさと自分を売り込む才能。スマートな風貌も相まって、落語家より会社のマネジメント職に向いている気がします。社内不倫をしても、笑いを交えてうまくごまかせるでしょうし(笑)。

 

ただし上記のような才能は、落語の世界とは正反対のものです。年長者への取り入り方がうまく、プロジェクトをビシビシとこなすような登場人物は、落語の世界には一人もいません。その真逆のドジな人間たちばかりです。才能のあることは悪いことではありませんが、それを鼻にかけるようになると人間性として、落語に滲み出してくるようになってしまいます。この人の落語が今ひとつ評価が高くないのは、このようなところに要因があるのかもしれません。

 

三遊亭圓生の看板への執着

 

近年、6代目・円楽は、三遊亭圓生の名を継ぎたいと公言するようになりました。現在、圓生名跡は「止め名(誰にも継がせない名跡)」の状態になっており、使われることのない大名跡になっています。この圓生名跡の継承に関しては、過去に5代目・圓楽が自分の弟子・鳳楽に継がせようとしてひと騒動が起きています。本書のタイトルは「~流れつくか圓生に」です。6代目・円楽はなぜこの大名跡を熱望しているのでしょう?

 

本書でも紹介されている優れた後続の落語家たち、志の輔喬太郎、三三などは、今さら大名跡を欲しがるでしょうか。落語家としてすでに芸風を確立し、落語で多数のファンを抱えている彼らには、いまさら名前を変える必要もメリットもないでしょう。昨今、大名跡を継ぎたがったり、協会での地位を欲しがる落語家は、芸風を確立できていない方が多いように思います。

 

本書で語られている5代目圓楽の晩年は、感慨深いものがあります。

 

(前略)これは、俺も(6代目・円楽)同じで、若くしてテレビ・ラジオで売れっ子になった噺家全員が感じる疑問だった。

(俺は、テレビ番組(こんなこと)ばかりやっていて、落語を修行しなくていいのだろうか)

 このことに早めに気がついた立川談志師匠や、柳家小三治師匠は、落語家の本分を取り戻すかのように活動の主軸を高座に移し、芸を磨きあげて齢を重ねて行った。勿論、本人の才能や環境の違いもあるが、高座に専念した落語家人生を送った方が、落語家としての世間の評価が高まるのは当たり前で、何よりも芸に対する本人の充実感が全く違ったものになる。高座に専念することが若いときから許されていたなら、落語家の人生に迷いが無い。その点で、ウチの師匠の落語家としての最晩年は、迷いに迷っていた。

 

 

6代目・円楽は最近、2つの大病を患いました。この経験が、晩節を考えることにつながったのでしょう。自分は何を伝え、残すべきかを。

 

本書はこんな言葉で締めくくられます。

 

俺の最期にそれこそ、「もうダメだ」ってときに、圓生を継いじゃおうかな……。“三月(みつき)の圓生”と呼ばれてもいいかもね。(中略)俺のこの身体で皆さんが認めてくれたら、そして俺が古稀過ぎてまでまだ出来そうだったらば、もう一度圓生を世に出すために一役買いたいというのも、噺家として、三遊亭一門の一人としての夢だと言ってサゲようか?

 

私は、落語家が残すべきは名前ではなく、高座姿だと思います。6代目・円楽は大名跡を獲得するために、残された時間と力を使うのではなく、最後にどのような高座を演じるかに残り全ての時間を費やすべきではないでしょうか。そんな思いが去来しました。

 

落語家の晩節について考えさせられる興味深い一冊でした。

 

『流されて円楽に 流れつくか圓生に』

六代目三遊亭円楽(著)

竹書房

 

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