落語はビジネスにも役立つ!「笑う力」を身につけたい

アマチュア落語家・太助が、落語の魅力を考えます。

『マリア・シャラポワ自伝』トップの座に就き、トップであり続けるための条件

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こんにちは、アマチュア落語家の太助です。最近、「プロとアマチュアの差とは何だろう?」と考え続けています。そこへ飛び込んできたのが、テニスの大阪なおみ全米オープン制覇です。日本人初の快挙ということで、大きなニュースとなりました。テニス好きの太助はこのニュースを聞いて、17歳で全英オープンを制したマリア・シャラポワについて思い出しました。

 

プロになるまでの波乱万丈の人生

 

190cm近い身長とブロンドの髪を持つ端麗な容姿のテニスプレーヤー、マリア・シャラポワをご存じの方も多いと思います。17歳にして全英オープンを制覇し、その後、世界ランキング1位を獲得、生涯グランドスラム(4大大会をすべて制覇)も達成した、まさにテニス界のトッププレーヤーです。

 

試合中のシャラポワは、1球打つたびに大きなうなり声をあげ、獣のような眼光で相手をにらみつけてコートを走り回ります。容姿が端麗なだけに、プレースタイルとのギャップが際立ちます。優雅とはほど遠い、そのプレースタイルを嫌う人もいます。

 

彼女は、なぜ獣のように戦い続けるのか? その秘密はマリア・シャラポワ自伝』の中で解き明かされます。そこに描かれているのは、想像を絶するようなシャラポワの生い立ちです。

 

1986年ロシア・チェルノブイリ原発事故が発生。近隣に住んでいた両親はシベリア移住を決断し、その翌年、シャラポワが生まれます。テニス好きの父の影響により、4歳でテニスをスタート。6歳のとき、伝説的なテニス選手であるナブラチロワに見いだされ、アメリカに行き、テニス技術を磨くように勧められます。ここでシャラポワの父・ユーリは、仕事を辞め、娘を世界一のテニスプレーヤーにすることを決意します。

 

ビザを取ることさえ困難な時代に、父・ユーリは全財産と借金でこしらえた700ドルを持ち、6歳の娘とアメリカへ旅立ちます。しかし到着した空港には、迎えに来るはずのコーチは現れません。英語をひと言もしゃべれない親子は、たまたま知り合ったポーランド人夫婦の助けを借り、自分たちを受け入れてくれるテニスアカデミーを探し歩きます。

 

なんとか著名なアカデミーに入校でき、おんぼろアパートの一室を借り、親子のアメリカ生活はスタートします。セレブの娘たちが世界中から集まるアカデミーで、ロシアから来た貧しい6歳の娘は、戦う世界の掟を含め、いろいろなことに気付きます。

 

少女たちは世界中からこのアカデミーに来ていた。まあまあ上手な子もいた。かなり上手な子も。優秀な子もいた。でも大半はさほど上手ではなかった。こうしたプレーヤーたち、アカデミーに真の意味での利益をもたらしている生徒がいたのは、彼らの親が現実に向き合うことができなかったからだ。

 

この世界では、とても上手というものと、優秀というものの間にはグランド・キャニオン並みに大きな差があった。(p.51)

 

 

移民として生き残ろうとする父と娘には、苦難が次々に襲いかかります。なんとか入校したアカデミーも他のテニスママのいじめにより追い出され、別のアカデミーへ。しかし、ここでは英語が理解できないのにつけこまれ、ひどい条件の奴隷契約を結ばされそうになります。さらに父親は過酷な労働により体を痛め、家賃が払えなくなり、アパートを追い出されそうにもなります。

 

しかし、不運のあとには幸運が訪れます。たまたまテニストーナメントで知り合った人間に苦境を訴えたところ、契約書に詳しい知人を紹介してくれ、さらに自宅に住まわせてくれたのです。

 

戦場で友人を作ることに、わたしは関心がない

 

こうした苦境の中で、シャラポワはテニスの腕を上げるとともに、強固な性質を作り上げていきます。

 

ボールを打つとき、わたしは小さくうなった。子供のころでさえ、わたしはまわりから自分を切り離そうとしていた。感情を持たない。恐怖を感じない。氷のようになる。ほかの女の子と友達にならなかった。そんなことをすれば、わたしはさらに優しくなり、さらに負けやすくなるから。まわりの少女は世の中で最高に親切な子たちだったかもしれないが、わたしはそんなこと知ろうともしなかった。知らないでいようと決めたのだ。(中略)自分の最大の強みはそういう性質なのだ。だったら、それを捨てるべきではない。

 

戦場で友人を作ることにわたしは関心がない。友達になったら、武器を捨てることになる。(p.59)

 

 

こうしてテニストーナメントを戦い続ける中で、シャラポワは頭角を現し、スポーツエージェンシーにも見い出されて、スポンサーがつくようになります。

 

それにしてもテニスの世界は過酷です。

 

(父親と)ふたりだけでトーナメントからトーナメントへ、街から街へ、ホテルからホテルへと旅をした。北米からアジアやヨーロッパへ行き、また北米へ戻ってくるというように。強行軍だった。いつ終わるともわからないツアー。世界中を旅しながらも、何ひとつ見ることはない。(中略)いつも同じ顔ぶれ、同じライバル、同じ争い。毎日が同じ日。繰り返し、繰り返し。(p.154)

 

6歳からプロテニスプレーヤーの道を歩み始めたシャラポワは、16歳でツアー初優勝。17歳でテニスの聖地ウィンブルドンで、2004年の全英オープン優勝を成し遂げます。そして2005年には世界ランキング1位まで駆け上がります。

 

トップの座に就き、トップであり続けるための条件とは

 

2008年までに4大大会で3回の優勝を重ね、トッププレーヤーの座に就いたシャラポワ。しかし、彼女の波乱のキャリアはまだ続きます。この年、長年の蓄積疲労もあり、肩の手術に踏み切ることになり、長期の休養を余儀なくされます。手術後のリハビリを経て復活し、2012年には全仏オープンを制覇し、生涯グランドスラムを達成。その年のロンドンオリンピックでは、ロシアの旗手を務めます。

 

しかし、2016年に国際テニス連盟からドーピング疑惑の指摘を受けてしまいます。心臓疾患のため永年服用していたサプリメントが、2016年に禁止薬物に指定されたことに気付かず、使用を続けていたからです。シャラポワは、この疑惑を受けていることを自ら公表し、国際テニス連盟と争いますが、15か月の出場停止となってしまいます。彼女のスポンサークライアントは、この騒動ですべて離れていきます。

 

15か月に渡る出場停止期間を経て、2017年、シャラポワは再び、テニスプレーヤーとしてカムバックし、歩み始めます。

 

それにしても、なんという凄まじい人生でしょう。中高年世代は、マンガ「巨人の星」を思い出すかもしれません。貧しい家庭に生まれた星 飛雄馬(ほし・ひゅうま)が、父のスパルタ指導のもとプロ野球のエースピッチャーになり、ライバル達と戦い続けるというマンガです。現在、小説やマンガで、「巨人の星」のようなストーリーを展開したら、荒唐無稽と言われかねません。

 

巨人の星」は1960年代のマンガです。60年代の日本には、貧困が目に見えるかたちで、あちこちに数多く存在していました。貧困から抜け出すための1つの手段としてスポーツや芸能があり、漫画化もされていたのです。現代の日本においても、貧困はなくなったわけではありません。しかし、そこから抜け出すことをテーマにしたストーリーには、リアリティがなくなってしまいました。いまは、貧困など重たいものを背負わない、軽やかな天才がもてはやされる時代となりました。

 

しかし、この父娘を見ると、まだまだ世界には、何かを背負いながら戦い続けているアスリートがいることを実感します。

 

世界中を巡り、独りで戦い続けるプロテニスプレーヤーは、本当に過酷な職業です。20代中盤を過ぎると体はボロボロになり、20代後半には引退を考え始めます。世界中の天才たちと戦いを繰り広げ、トップの座に就いても、すぐに新たな天才が現れてきます。世界No.1の座に就き、生涯グランドスラムを達成し、目的を失いかけたシャラポワは、このドーピングによる出場停止により、新たな闘志を燃やし始めます。

 

この本の最後で、彼女はこのように結んでいます。

 

今はテニスをすることだけ考えている。できるだけ長く。できるだけ激しく。ネットが取り払われるまで。ラケットが焼き尽くされるまで。わたしが止められてしまう日まで。止められるものなら、やってみるがいい。

 

天才たちが集まるプロ集団の中で、トップの座に就き、トップであり続けるための条件。それを垣間見ることができる貴重な1冊でした。

 

マリア・シャラポワ自伝』

マリア・シャラポワ(著)

文藝春秋

 

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