江戸への旅路:落語『火事息子』~憧れの職業は町火消し
こんにちは、アマチュア落語家の太助です。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があります。江戸は大火事が多くて火消しの働きぶりがはなばなしかったことと、江戸っ子は気が早いため派手な喧嘩が多かったことをいった言葉です。
とにかく江戸時代は火事が多かったようで、市街を焼き尽くした大火災も10回あります。なかでも有名なのが明暦3年(1657)の明暦の大火、いわゆる振袖火事(ふりそでかじ)です。振袖火事は、江戸時代最大の火災で、江戸城本丸御殿と天守閣が全焼したほか、大名・旗本屋敷1200以上、寺社350余が消失、町の被害はさらにひどく、死者は総計10万人以上にのぼりました。
この火事を契機に都市計画が見直され、江戸城周辺に集まっていた大名屋敷や寺社は郊外に移され、上野広小路など各所に火除地(ひよけち:延焼を防ぐための空き地)が設けられました。また、隅田川に両国橋を架けて、本所や深川に造成した埋立地を町方の避難所としました。
江戸っ子の憧れの職業は「町火消し」
振袖火事の翌年には火消しが組織化されます。その後、享保3年(1718)、町奉行・大岡忠相(おおおか・ただすけ)は町火消しを作り、同5年には、いろは四十八組を編成し、本格的な町火消制度を発足させました。いろは組とは、隅田川を境とした西側の区域に組織されたもので、隅田川東側の本所・深川には16組の火消組を置きました。同時に各組ごとに目印となる纏(まとい)と幟(のぼり)を定めました。ちなみに町火消しに要する費用は、すべて町の負担です。
当時の消防は現在と違い、燃えている家を潰したり、風下の家を引き倒して延焼を防ぐ破壊消防が主流で、町火消しの主力は鳶人足(とびにんそく)になっていきます。鳶人足は各組ごとに、頭(かしら)、纏持ち(まといもち)、梯子持ち(はしごもち)、平人足と階層化されていきます。
町火消しの数は最盛期には、1万人にものぼり、江戸消防の中心的役割を担ったそうです。
火消しになりたくて勘当される若旦那が登場する『火事息子』
「芝で生まれて 神田で育ち 今じゃ火消の纏持ち」。粋でいなせな町火消しの花形、纏持ちは江戸っ子のアイドル、憧れの職業だったそうです。
落語「火事息子」は、火消しになりたくて、とうとう勘当されてしまった若旦那が登場する噺。
神田の大きな質屋の近くで火事が起きた。ところが預かり物をしまっている蔵に、火よけの目塗りがしていない。大騒ぎで目塗りを始めるが、素人ばかりで仕事がはかどらない。そこへ屋根から屋根へ軽やかに飛び移りながら、一人の火消人足(通称、臥煙・がえん)が駆けつけてくる。体中に彫り物を入れたその人足こそ、火消しになりたいと家を飛び出し、勘当されて行方不明だった息子の徳三郎であった……。
八代目・林家正蔵、古今亭志ん生、古今亭志ん朝、立川談志など多くの名人が手掛けていますが、今回は三遊亭圓生バージョンをご紹介します。志ん朝や談志のカラリとした高座に比べ、圓生は濃密で湿り気が多いのですが、それも味わい。ご堪能ください。
三遊亭圓生「火事息子」
参考資料
東京消防庁:へらひん組がなかった「いろは四十八組」
『江戸の暮らし』山本博文(著)
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