大崎善生『将棋の子』:プロとアマチュアの境界線とは何だろう?
こんにちは、アマチュア落語家の太助です。「プロとアマチュアの違いって何だろう」と考えることがあります。アマチュア落語家でも、プロ顔負けの上手な方がいらっしゃいます。しかし、どんなにうまくても、素人はプロの落語家にはなれません。
プロである条件ってなんでしょうか? それを本業として、食べていけることでしょうか? しかし落語家に限らず、役者や漫才師でも、それだけでは食べていけない人がたくさんいます。
落語家になるには、落語家に弟子入りを認められ、2~3年の前座修行を積まなければなりません。弟子入りして前座になることで、師匠の入っている落語団体に所属することになります。そして、前座から二つ目、真打と昇格していきます。真打になるには、入門から12~15年程度の歳月がかかります。このように師匠のもとで一定の年数修行を積むことが、プロの条件なのでしょうか?
芸が下手で、落語家として食べていけなくても、果たしてプロと呼べるのでしょうか? そんなことを考えていたところ、大崎善生(著)『将棋の子』を読み返してみたくなりました。
『将棋の子』は、プロの棋士(きし)を目指しながら、夢破れて去っていく若者たちのノンフィクションです。
天才集団の中で勝ち抜いてプロを目指す過酷な世界
将棋界でプロとして認められるのは、四段からです。三段までは奨励会に所属します。奨励会とは日本将棋連盟の組織の一つで、棋士になるための修行の場であり、同時に淘汰の場です。
全国から集まったプロを志す将棋の天才少年たちは奨励会に入会して、そこで初めて自分が天才でも何でもなく、将棋棋士を目指すごく普通の人間の一人であることを知る。地方にいたころは大人にさえほとんど負けることがなかった少年も、自分よりも年下の子供に手もなくひねられるという現実が待ち受けている。一度、天才の集団に入ってしまえば、どんなに優れていたとしてもごく平凡な存在になってしまうのだ。(p.45)
ここで少年たちはプロを目指すのですが、そのための関門が2つあります。まず21歳までに初段を取らねばならず、その後、奨励会三段リーグでわずか2人の昇段枠を勝ち抜いて、初めてプロになれるのです。この三段リーグも26歳という年齢制限があります(年齢規定は本書執筆時)。三段リーグは26歳になっても勝ち越していれば、最高29歳まで在籍可能と規定変更されたそうですが、それでも20代で自分の夢に決着をつけなければならないのです。
著者の大崎善生は大学在学中に将棋にのめり込み、将棋道場に通いつめてアマ4段を獲得。この道場の縁で、日本将棋連盟で働くことになり、多くの若い奨励会員たちと知り合いになります。
本書は、著者の同郷の奨励会員・成田英二が夢に破れていく過程と、その後が描かれています。また、その同時代を生きた多くの若き奨励会員たちも登場します。勝ち抜くことでしか夢をつかめない彼らの日々は、過酷です。そして、勝負は能力だけで決まるわけではありません。
棋士たちの極限の戦いは、定跡や知識や読みや感性や、そんな人間の持つ武器のあらゆるものを超える崇高な瞬間を迎えることがある。
偶然。
技術を極めた人と人が戦うとき、あるいは同じくらいの技量の人間同士が戦うとき、その説明できないものが結果を左右することの何と多いことか。(p.79)
将棋に勝つことでしか自分の人生や存在理由を証明することができない奨励会員たち。しかし、偶然や運・不運としか呼べないようなもので、人生を左右されてしまう若者も数多くいます。例えば、羽生善治を中心とする天才少年軍団の登場の時期に、たまたまぶつかってしまい、翻弄され、蹴散らされた世代などもそうでしょう。
北海道出身の天才少年・成田英二の運命も過酷です。成田が上京して奨励会に入ると、成田を助けるために両親も追って上京。しかし24歳で夢破れると、その挫折に合わせるかのように両親が他界。将棋しかやってこなかった青年は、一人社会に放り出され、借金まみれになり転落していきます。
生活のすべてを将棋や落語だけに捧げ、自分の才能と向き合い続けること
棋士だけでなく、落語家や漫才師、役者、スポーツ選手など、自分の能力だけを頼りに生きていく職業では、否応なく自分の才能に向き合わねばなりません。私は10代後半から20代のすべてを演劇の世界で過ごしてきたので、よく分かるのですが、「自分はこの世界で生きていけるほどの才能があるのだろうか?」という自問自答を繰り返す毎日なのです。しかも20代では自分に才能があるのか、ないのか、ぼんやりとしか見極めがつきません。
将棋や囲碁のように、はっきりと勝敗のつく分野は容赦のない厳しい世界ですが、勝てないことで逆にあきらめがつくのかもしれません。落語家や役者は、勝ち負けのはっきりしない世界です。人気という漠然としたものが、才能のバロメーターになります。それは観客という他者の手にゆだねられているのです。
『将棋の子』のラストでは、成田英二が将棋の世界にいたことを誇りに思っていることが描かれます。少年の日に天才と呼ばれたこと。幼い羽生善治に歯が立たなかったこと。すべてが彼の中では、遠い日のメダルのようにキラキラと輝いています。それは読者である私たちにとっても救いとなります。
生活のすべてを将棋や落語だけに捧げ、自分の才能と真剣に向き合い続け、それを長きに渡り継続することでしか、プロになる日は訪れない。そこだけは分野を問わず、変わらないものだという想いが去来しました。
プロとアマチュアの違いってなんでしょうか? もうしばらく考えてみたいと思います。
『将棋の子』
大崎善生(著)
講談社文庫
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