江戸時代は、金を貯めたり、出世するのは、みっともない?「三方一両損」
こんにちは、太助です。暑い日が続きますが、いかがお過ごしですか? 太助は「三方一両損(さんぽういちりょうぞん)」という落語を演じたくて、いま一生懸命、調べているところです。
この落語は、江戸っ子の金銭観が表れていて、とても興味深い噺なので、ご紹介しましょう。
拾った金を押し付けあう、おかしな二人
「三方一両損」は、左官職人の金太郎が財布を拾うシーンから始まります。財布に入っていたのは三両のお金と印形(印鑑)、名前・住所を書いた書付け。この書付けで、財布を落としたのが神田の大工、吉五郎だと分かります。
金太郎は親切心で、この財布を吉五郎に届けに行きます。喜んでくれると思いきや、吉五郎は「余計なことをしやがって」と怒り出し、印形と書付けは受け取るが、金を要らないから金太郎にやると言い出します。
「せっかく届けに来たのに、なぜ金を受け取らないんだ」と怒る金太郎。
「落とした金を届けてもらって、『ありがとうござんす』なんてんで、こいつを大事にしまっとくなんて、そんな、さもしい料簡は俺にはねえんだ」と返す吉五郎。
金太郎も受け取らない。「受け取れ」「要らねえ」を繰り返したあげく、とうとう二人は大喧嘩に。仲裁に入った大家の言うことも聞かない吉五郎。「後日、必ずお礼に行かせるから、今日は引きとってくれ」と大家に懇願され、帰宅する金太郎。
ところが、金太郎が住む長屋の大家が、このいきさつを聞いて、いきり立ち、とうとう奉行所に訴え出ることに。
これを裁くのが名奉行・大岡越前守(おおおか えちぜんのかみ)。大岡越前守は、問題の三両を預かったうえで、二人の正直さへの褒美に、二両ずつ与え、この裁きを「三方一両損」と説明します。
吉五郎は届けられた金を受け取っていれば、三両を手にしていた。金太郎は、要らないと言って返された金を受け取っていれば、三両手にしていた。大岡越前守は預かった三両に、自分の一両を足して二人に与えた。つまり三方が一両ずつ損をして、丸く収まるという裁きだったのです。
あなたは「イエス」それとも「ノー」?
さて、現代に生きる皆さんから見て、この二人の金銭に関する潔癖感は、違和感のあるものでしょうか? あまりに馬鹿げたものですか?
この落語のマクラでは、
江戸っ子というものは、どうも金に執着がなかった、なんて言いますな。今日稼いだ金は、今日中に使ってしまう。宵越しの銭は持たないなんてことを自慢にしていたそうです。江戸っ子の代表というと職人でございますから、商人(あきんど)と違って金を蓄えるということをしない。金は腕の中に入っている。金が欲しいときには仕事をすればいい。確かに腕のいい職人になると、仕事が降るほどあったんだそうです。だから、宵越しの銭は持たないという手合いが、いくらでも居たんだそうですな。
と、江戸っ子の金銭感覚と金に対する美学が語られています。
太助が面白いと思うのは、取り調べを受けている金太郎が、
「三両ばかりの金を拾って、ネコババするような、そんなさもしい了見を持ってるんだったら、とうの昔に、こっちゃあねえ、立派な親方になってるんでい。こっちゃあ、生涯、親方なんぞにはなりたくねえ。人間というものは出世するような、そんな災難に遭いたくねえ」
と語るところです。
「大企業に入って、年収1000万以上が勝ち組だ」と言っている現代と違いすぎるでしょ? 出世するのは災難なんです。
しかし、近頃は、災難に遭いたくないのか、出世を拒む人が増えているのも事実。
あなたは、金太郎の考え方はイエスですか? それともノーですか?